甲賀組第一部法然上人二十五霊場

法然上人二十五霊場
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法然上人の略歴

承2年(1134)、現在の岡山県久米郡久米南町、漆間時国の子どもとして誕生された法然上人。幼名は、勢至丸といいました。勢至丸10歳のころ、父は夜討ちに合い命を落とします。その際、勢至丸に向けて「侍になると、敵討ちを繰り返すことになる。お前は侍にはならず、出家し、世の人々を救う道に進みなさい」といった意味の言葉を遺しました。

父の死後、勢至丸は近くのお寺にて住職を務めていた母親の弟、観覚上人の元へと預けられます。勢至丸の素質を見抜いた観覚上人は、勢至丸に対して当時日本の学問所であった比叡山に行くことを勧めました。その言葉に従い、比叡山に登った勢至丸は、天台の学問を修めます。

18歳のとき、黒谷の慈眼房叡空の元へと入り、聖僧としての道を歩まれます。そして、比叡山黒谷にある青龍寺にこもり、仏教の経典である大蔵経を読む中で「一心専念弥陀名号」という言葉と出会われました。少し噛み砕いて申しますと「座っていても、寝ていても、仕事をしていても、常に念仏を唱えていることが大事である。南無阿弥陀仏のお念仏を唱えることで、往生できる」といった内容です。

そして、立教開宗、いわゆる浄土宗を開きますとおっしゃられたのは、法然上人43歳のときでした。公家社会、高級武士に対する宗教が一般的であった時代に、老若男女、職業の貴賎を問わず、誰もが救われる宗教は、大変画期的なものだったといえます。

建暦2年(1212)、80歳にて往生された今もなお、法然上人の教えは、多くの人々に受け継がれています。



法然上人二十五霊場とはどのような流れで出来たものなのか?

江戸時代の宝暦年間、京都如来寺の廓誉順起が、法然上人にゆかりがあるお寺を巡拝する仕組みをつくろうとしたことが、法然上人二十五霊場の始まりだとされています。

しかし、残念ながらその思いを実現することなく、廓誉順起はこの世を去ってしまいました。その遺志を受け継いだのが、順起の弟子である大阪恋西庵の順阿霊沢です。宝暦12年(1762)、法然上人の550年遠忌(1761)と順起の33回忌(1763)を機に大阪、兵庫の僧侶や商人とともに法然上人ゆかりの地を巡ったことが、現在の法然上人二十五霊場の原型といわれています。


二十五霊場はどのようにして選ばれたのか?

法然上人がお生まれになった久米南町の「誕生寺」と、何らかの形で法然上人ゆかりのあるお寺24カ寺が選ばれました。25の数字から二十五霊場と名付けられています。

また、法然上人は、建暦2年(1212)の1月25日に亡くなられていることから、1月25日をご聖日と定めています。二十五霊場の参拝に関しましても、25日のお参りを推奨していますのは、このためです。

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