甲賀組第一部法然上人二十五霊場

西栄寺で八田地域の歴史を知る。
西栄寺レポート

今回、訪れたのは、甲賀市水口町八田にある「西栄寺」です。西栄寺と八田の歴史について、お話をお伺いしました。

村人によって助け出された木造阿彌陀如来座像と木造薬師如来座像




西栄寺の木造阿彌陀如来座像と木造薬師如来座像は、どちらも平安時代の作品です。国重要文化財に指定されています。ただ、西栄寺が建立されたのは、平安末期といわれていますが、正式な開基は不明です。また、寛文11年(1671年)に安土「浄厳院」の僧侶により現在地にて再建されましたが、その間の期間、どこにあったのかという話になりますよね。

そこで関係するのが、八田の歴史です。西栄寺の山号は「安養山」。この由来は、おそらく近くにある「安如山」と思われます。古くは、安如山の山頂に氏寺があったといわれています。その頃は藤原氏の荘園として庇護を受けていた陶工集団が氏寺として維持され、その後鎌倉時代より天台宗山伏系の忍者が氏寺として八田一円を領有し守っていたのだろうと。

しかし、織田信長や豊臣秀吉による忍者狩り、焼き討ちなどにより、このあたりは一掃されてしまったと考えられます。山上の氏寺が焼き落ちたとの記録もあります。

他にも仏さんはたくさんお祀りしてあったと思われますが、そのときに村人によって助け出されたのが、木造阿彌陀如来座像と木造薬師如来座像の2体。そして、村内の地蔵堂横に小寺を建て大切に守られていたのではないかとの言い伝えがあります。





八田地域の歴史について




八田の地は、今は水口ですが当時は水口藩の領地ではなく、江戸幕府末期まで江戸の旗本の知行地(ちぎょうち)でした。最初に石高を決められていたものの、その後に開墾し、蓄えを増やしていったことが古文書により解ったそうです。

天保13年、甲賀地域一帯の農民は度重なる飢饉に苦しみ、一向一揆を起こしていました。近江天保一揆の年です。しかし、西栄寺はその1年前、天保12年(1836年)に正式に本堂が再建されています。八田が裕福な土地であったことを表すエピソードのひとつです。


また、その後も、屋根瓦の葺き替えを行なったり、金箔を貼り直したりといったことはしていますが、現存する建物は、基本的に180年以上前のものです。材木も、本堂の裏は地元の松をつかっていると、大工さんがおっしゃっていました。

八田の地では、緑釉陶器を焼いていた平安期の窯跡も見つかっています。朝鮮半島から渡ってきた人たちが上質な粘土を求めて、祖父川の上流へとのぼってきたと言われています。陶器を始めたのが、八田の地の起こりです。今も八田の地区の小字(こあざ)には、窯業に関する名前(火明谷・いぶる谷・焼谷・炭殿・炭坂・ロクロ谷など)が残っていますね。

今回お伝えした内容は、先代住職の老僧が調べた内容であり、全てが真実に基づいているとは言い難いのですが、八田に忍者がいたこと、刀狩りが行なわれたことはは甲賀郡史にも記載されています。信仰厚き村人たち皆んなで阿弥陀さんとお薬師さんを正式なお寺で守ろうと、安土の浄厳院の僧侶らと協力し再建したことは、事実であります。


No.9番
本霊場當麻寺奥院
寺院名西栄寺
所在地水口町八田358番地
連絡先電話番号0748-62-1541
FAX